日本の近代化を支えた築地エリア。築地市場跡地の開発計画も進む都心と湾岸の結節点

文明開化の地、築地

八重洲や大手町といった「東京」駅周辺エリアや銀座など、東京を代表するエリアに隣接した築地エリアは、江戸時代の明暦の大火で焼失した「西本願寺」の代替地として造られた一帯。「西本願寺」はその後「築地本願寺」とその名を改め、周辺には武家屋敷も建ち並んだ。

築地市場
築地市場

明治維新が起こると、日本初の西洋風の街並みが誕生した銀座や鉄道開通に沸く新橋とともに、築地は文明開化の中心となっていく。明治元(1868)年に東京開市宣言(築地居留地を開く旨を告示)が行われると、現在の明石町周辺に外国人居留地が設けられ、宣教師や医師、教師などの知識人が多く暮らすようになった。同じく開国後の近代化をリードした横浜に商館や商社が多く集まったのに対し、築地には公使館や領事館が置かれ、教会や学校も数多く作られた。「青山学院」や「立教学院」、「明治学院」など築地を発祥の地とするキリスト教系の学校も多く、築地居留地は文教都市としての役目も果たしていた。また、外国との玄関口であるのに加え、諸外国に対する防衛の意味から海軍施設も多く設置された。そのような経緯から築地は外交や政治の中心舞台にもなっていった。

東京築地鉄炮洲景(国立国会図書館蔵)
東京築地鉄炮洲景(国立国会図書館蔵)

築地を語るのに外せないのが「築地市場」だ。築地市場にあたる場所は江戸時代、老中・松平定信の下屋敷があったことから、廻船問屋が集まり問屋や仲買店も並んでいた。関東大震災後は日本橋付近にあった「日本橋魚河岸」を松平定信下屋敷跡に移転し、臨時の「東京市設魚市場」を開設した。この臨時の市場が「築地市場」の歴史の始まり。以降「東京の台所」として長く親しまれ、水産物の1日当たりの取扱量が世界最大級を誇った。

「築地場外市場」
「築地場外市場」

施設の老朽化などを理由に、2018(平成31)年には豊洲に市場機能が移転したことにより「築地市場」は80余年の歴史に幕を下ろした。

豊洲市場
豊洲市場

移転後の活用方針も決定。オリンピック後には開発がスタート予定

「築地市場」跡地の活用に関して、東京都は閉鎖した「築地市場」の跡地再開発をめぐる関係局長会議で、将来像や方向性、進め方を示すものとして「築地まちづくり方針」を策定した。方針では、約23万平方メートルにも及ぶ広大な敷地を、国際会議場(MICE施設)等の機能を中核として、築地ブランドを含む新たな東京ブランドを創造・発信する拠点、文化・芸術、テクノロジー・デザイン、スポーツ・ウェルネスなどの機能が融合した拠点とする将来像が描かれ、敷地を4つのブロックに分け、国際会議場やホテル、、交通ターミナル、大規模集客・交流施設などを整備するとしている。

築地市場跡地の開発範囲
築地市場跡地の開発範囲

ゾーンごとの導入機能イメージ(出典:東京都「築地まちづくり方針」)
ゾーンごとの導入機能イメージ(出典:東京都「築地まちづくり方針」)

多くの集客交流が見込まれるビジネスイベントなどの総称である「MICE」といえば、東京近郊では「東京国際フォーラム」や「東京ビッグサイト」、「パシフィコ横浜」、「幕張メッセ」などが有名だろう。これらの施設をはじめ、現在日本にあるMICE施設の多くは、会議場や展示場のみで形成されていることが多い。しかし、世界に目を移すと、いまやシンガポールを代表する施設にもなっている「マリーナ・ベイ・サンズ」をはじめ、ラスベガスの「MGMグランド」、マカオの「ザ・ヴェネチアン・マカオ」など、会議場のほかにホテルやカジノ、ショッピング施設、劇場などと一体となって開発された施設も多い。

世界のMICEとの比較
世界のMICEとの比較

「築地まちづくり方針」では「従来の国内MICEの概念を超え、周辺地域と連携しつつ、国際会議場等の機能を中核としながら、文化・芸術、テクノロジー・デザイン、スポーツ・ウェルネスなどの機能が融合して相乗効果を発揮し、東京の成長に大きく寄与する交流拠点」とする将来像が描かれており、海外のMICE施設にも引けを取らないような施設が誕生することが期待されている。