池之端に暮らすIKENOHATA AREA GUIDE

江戸時代から栄え文豪も活躍した「台東区池之端エリア」の歴史

「池之端」と「不忍池」の歴史と地名の由来

現在の「上野恩賜公園」の西南部にある「不忍池(しのばずのいけ)」は、かつて「東京湾」の入り江の一部であったが、海岸線の後退により取り残され、平安時代頃に池となったといわれる。「池之端」という地名は、この「不忍池」のほとりにあることに由来する。

江戸時代以降は行楽地、特に蓮の名所として庶民にも親しまれるようになり、茶屋では蓮の葉で包んで蒸した「蓮飯」も提供されていたという。江戸時代の「不忍池」の東岸は「上野の山」(「寛永寺」の境内)で、北岸は大名をはじめとする武家地が広がっていた。南岸は町人地として茶屋などで賑わい、現在も「伊豆榮」「蓮玉庵」など江戸時代からの老舗も営業を続けている。

「不忍池」
「不忍池」

「寛永寺」と「上野恩賜公園」

「寛永寺」
「寛永寺」

「寛永寺」は江戸初期の1625(寛永2)年に、三代将軍・徳川家光の命で江戸城の鬼門を守る寺として建立された寺院。京都における「京都御所」とその鬼門である「比叡山」に建立された「延暦寺」にならい、創建時の元号から「寛永寺」と命名された。以後、徳川将軍家の菩提寺となり、御霊廟には6名の将軍が埋葬されている。

さらに、「不忍池」を「琵琶湖」に見立てて「弁天堂」の建立や、奈良・吉野山を模した桜の植樹など、京都や奈良の名所を彷彿とさせる工夫が施された結果、江戸随一の桜の名所として名を馳せるようになり、現在でもお花見スポットとして多くの人に親しまれている。

上野恩賜公園の桜
上野恩賜公園の桜

幕末期の「戊辰戦争」の戦いの一つ「上野戦争」の戦火で荒廃していた「寛永寺」の境内は、その後日本最初の公園の一つ「上野恩賜公園」に指定された。

広大な敷地では、明治時代から昭和戦前期にかけて、博覧会の会場としてもたびたび使用され、多くの人を集めるとともに、最新の製品や情報が発信されたという。また、明治時代より常設の博物館、図書館、動物園、音楽学校、美術学校なども設けられるようになり、西洋レストランもオープンするなど、文化・芸術の中心地として発展した。

江戸時代の「池之端」周辺の歴史

台東区池之端に隣接する文京区根津にある「根津神社」は、1900年以上前、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、戦勝祈願のため千駄木で創祀したことに始まったと伝わる東京で最古級の神社。明治時代に「根津神社」へ改称して現在に至っている。

「根津神社」
「根津神社」

この地は、元は「甲府徳川家」の江戸藩邸があった場所で、徳川家宣(のちの六代将軍)が生まれ、五代将軍・綱吉が家宣を養子とした地としても知られる。現在も綱吉が造営した当時の建物が現存しており、国の重要文化財に指定されている。

「根津神社」は現在もツツジの名所として知られるが、その歴史は「甲府徳川家」の江戸藩邸時代、庭にツツジが植えられたことに始まるといわれており、江戸時代には「つつじヶ岡」とも呼ばれる名所だったという。

明治時代以降の「池之端エリア」

「池之端」は明治時代以降、「上野恩賜公園」とともに日本の国内外の文化の発信地となった。上野公園で行われた博覧会では、「不忍池」周辺にエスカレーターや観覧車、ロープウェイなども設置され、当時最先端の乗り物や機械を実際に体験できたという。

江戸時代に武家屋敷があった「不忍池」の北岸には、明治時代以降は文化人・実業家などが邸宅を構えた。小説家・森鷗外もその一人で、代表作『舞姫』は「池之端」の自邸で執筆された。この旧邸は1946(昭和21)年より「水月旅館」(のちの「水月ホテル鴎外荘」)が所有していたが、ホテルの閉館に伴い、鷗外とゆかりがある「根津神社」への移築が決まっている。

「不忍池」の西岸も、台地上は江戸時代に広大な大名屋敷があった地で、現在は「東京大学」などになっている。明治初期には「三菱財閥」の創始者・岩崎彌太郎が周辺の土地を入手し、長男の三菱第三代社長の久彌が本邸を完成させた。戦後「GHQ」による接収を経て1952(昭和27)年に国有財産となり、2001(平成13)年に東京都へ移管され「旧岩崎邸庭園」として開園した。

「東京大学」
「東京大学」

「不忍池」の西岸のほとりには、1908(明治41)年に日本画家・横山大観が自邸を構えた。画家としての名声が高まるにつれ敷地を拡張し、1919(大正8)年に現在の規模となった。自宅兼画室は自身のデザインであったが、「東京大空襲」で焼失。戦後に再建され、亡くなるまでここに居住し制作活動を行った。没後の1976(昭和51)年、自邸は「横山大観記念館」として整備され一般に公開されている。

戦後から現代にいたる「池之端エリア」の発展

1917(大正6)年には上野と駒込方面を結ぶ市電(のち都電)動坂線が開通し、長年地域住民の重要な交通手段となっていたが、交通事情の変化により1971(昭和46)年に廃止された。「不忍通り」沿いの「池之端二丁目交差点」付近に設置されていた池之端七軒町停留場の跡地は、現在「池之端児童遊園」として整備され、かつての車両が保存されている。都電廃止とほぼ同時期の1969(昭和44)年には、営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線が「不忍通り」の地下に開通、「池之端エリア」付近に設けられた「根津」駅から「大手町」駅などへダイレクトにアクセス可能になり、地域の交通利便性が向上した。

「池之端児童遊園」と都電
「池之端児童遊園」と都電

このように、「池之端エリア」とその周辺は戦後も発展を続け、現在では多くの文化施設や観光名所が集積する地域となった。特に「上野恩賜公園」や「不忍池」周辺は、四季折々の自然を楽しむことができる場所として、多くの人々に親しまれている。また、「不忍池」周辺や、その北側に延びる「谷根千エリア」には多くの飲食店やカフェが立ち並び、地元の人々や観光客にとっての憩いの場となっている。

江戸時代から栄え文豪も活躍した「台東区池之端エリア」の歴史
所在地:東京都台東区