武家屋敷と古社が醸す、落ち着きの街並み
文京区の北寄り、豊島区に近い場所に位置する千石エリアは都心にありながら、豊かな緑と歴史を併せ持つことも特徴だ。千石という地名は、過去に流れていた千川の「千」と小石川の「石」から名付けられたもので、1967(昭和42)年に林町など周辺の複数の町を合わせて誕生した。かつて「千石」駅の南西一帯の地名であった林町は幕末にペリーとの交渉を担った儒学者の林頭復斎の下屋敷があったことに由来し、明治初期頃からこの名で呼ばれていたそうだ。
江戸時代以前の千石エリアは荒地が広がっていたが、江戸時代に入ると多くの武家屋敷が造られるようになった。一橋徳川家の屋敷もそのひとつで、1989(平成元)年に屋敷の一部の樹林地が文京区に寄付され、「千石緑地」として整備された。ここには樹齢100年以上と推定されるムクノキがあり、パワースポットとしても注目されている。
千石エリアの南には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」が広がる。2代将軍徳川秀忠は、それまで今の本郷一丁目エリアにあった「白山神社」をこの地に移すよう命じた。その後、この場所は5代将軍徳川綱吉となる松平徳松の屋敷として使われることになり、「白山神社」は再び移転、「小石川御殿(白山御殿)」が誕生する。
徳川綱吉の没後、使われなくなった「小石川御殿」跡地は江戸幕府が開設する薬草園「小石川薬園」となる。明治維新後は「東京帝国大学(現・東京大学)」の付属施設となり、現在も「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」として植物の研究が行われている。一般公開もされており、豊かな自然を満喫しながらの散策が可能だ。
千石エリアの北東に広がる「六義園」も5代将軍徳川綱吉の重臣であった柳沢吉保の下屋敷に造営した大名庭園であった。明治維新後は三菱創設者の岩崎弥太郎氏が所有していたが、1938(昭和13)年に当時の東京市に寄贈され、一般公開されるようになった。
千石エリアに立つ「簸川(ひかわ)神社」は約1500年前の創建と伝えられる古社で、旧小石川村の鎮守として信仰を集めていた。「簸川神社」もかつては現在の「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」内にあり、「小石川御殿」が建てられる際に現在の場所に移ったという。今も「簸川神社」では毎年秋に例大祭が行われ、山車や神輿が繰り出し境内に屋台が並ぶなど大いに賑わう。
江戸時代、千石エリアの南には徳川綱吉が母、桂昌院の祈願寺として「護国寺」が建立された。その後、「護国寺」は山縣有朋、大隈重信など著名人の墓も設けられている。
武家屋敷の名残が残る千石エリアには、今も神輿が出る例祭が行われる神社が佇むなど歴史を感じられるスポットが多い。歴史が醸し出す潤いと穏やかな住環境に包まれた日常空間で過ごせるのも千石エリアの魅力だろう。
武家屋敷と古社が醸す、落ち着きの街並み
所在地:東京都文京区
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