知るほどに千駄ヶ谷の“今”が楽しめる歴史レポート

JR中央線「千駄ケ谷」駅の様子
JR中央線「千駄ケ谷」駅の様子

千駄ヶ谷という地名は、江戸時代に萱(カヤ)が千駄ほどたくさん生えていたから名付けられたといわれています。駄とは、馬に積む荷物の重さの単位。現在は自然豊かでありながら、都心ならではの整備された街並が広がっています。ではどのようにして今のような街並は形成されていったのでしょうか?それには1920(大正9)年に創建された「明治神宮外苑」、さらに1964年東京オリンピックが大きく影響しています。というわけで知れば知るほど奥が深い、千駄ヶ谷エリアの歴史に迫ってみます!

江戸時代の千駄ヶ谷エリアには、「境妙寺」や「立法寺」などの寺が構えていました。当時は「新宿御苑」を水源とする渋谷川が流れており、そのことから多くの萱が生えていたそうです。幕末には「境妙寺」の北に火薬庫、その南東には鉄砲場もあったようです。明治中期には、その敷地が買い上げられて「青山練兵場」となり、周辺にも軍の施設が置かれることになりました。

1964年頃、明治公園の景観1
1964年頃、明治公園の景観1

1964年頃、明治公園の景観2
1964年頃、明治公園の景観2


「青山練兵場」だった土地は、明治天皇崩御後にその遺徳を後世に伝えるべく、「明治神宮外苑」となりました。1924(大正13)年には、その一角に「明治神宮外苑競技場」が完成。その後、1964年東京オリンピックに向けて取り壊しが行われ、「国立競技場」が誕生しました。今でこそ都心となったエリアですが、このようにして「明治神宮御苑」周辺の広大な土地ができる下地となったのです。

1964年頃、国立競技場
1964年頃、国立競技場

国立競技場の電光掲示板
国立競技場の電光掲示板


1964年当時のオリンピックポスター
1964年当時のオリンピックポスター

1964年東京オリンピックは、初めてづくしの大会でした。まず、アジア地域で初の開催でり、「有色人種」国家における史上初のオリンピックという意義も持っていました。さらに案内や誘導、競技種目表示において、ピクトグラムという絵文字や絵単語が採用されたのも、この大会が最初です。結果、大会は成功に終わり、当時のIOC会長アベリー・ブランデージ氏は「見事に最高級のオリンピック大会を開催した」とまで発言。まさに日本の技術力を証明した形となり、その後の日本はさらなる高度成長を遂げるのでした。


当時の選手村は、エリア南西に広がる「代々木公園」にあり、こちらも激動の歴史の中で今に至っています。「代々木公園」がある場所は、かつて武家地として知られていました。明治時代になると陸軍の練兵場となり、隣接する場所には「明治神宮」が造られました。しかし、第2次世界大戦後ーー練兵場は連合軍によって摂取。ワシントンハイツ(アメリカ村)となって、アメリカ空軍やその家族が住む団地が建設されました。転機が訪れたのは1964年東京オリンピック。開催が決定されると、ワシントンハイツを選手村・競技場用地として使用することが決定し、日本に全面返還されたのでした。

当時の選手村の全景
当時の選手村の全景

選手村の様子
選手村の様子

1964年東京オリンピック後、選手村は解体。更地となった場所に、樹々が計画的に植えられていき、東京唯一の森林公園である「代々木公園」が完成。現在の至っています。ちなみに園内には、オランダ選手が使用した宿舎が1戸だけ残されており、「オリンピック記念の宿舎」として当時の様子を知ることができます。


「千駄ケ谷」駅前の街並
「千駄ケ谷」駅前の街並

いかがだったでしょう。こうして千駄ヶ谷エリアは様々な歴史が経て、今のような街並が形成されたことが分かりましたね!2019(令和元)年11月には、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて「国立競技場」の改築が完了しました。私たちは、新たな歴史の1ページを刻む瞬間に立ち会っているといえるでしょう。


発見ポイント!

新国立競技場の目の前、「オリンピックミュージアム」
新国立競技場の目の前、「オリンピックミュージアム」

  • (1)様々な歴史を経て、今の広大な土地ができあがっていった
  • (2)2020年だけでなく、1964年東京オリンピックでも様々な競技が行われたエリアである
  • (3)「代々木公園」では1964年当時に使用された選手の宿舎が残っている

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