町田の歴史は「本町田遺跡公園」にもみられるように、遥か昔から人々の生活が息づいていた。町田市でみつかった一番古い石器(せっき)は、今から2万3,000年くらい前の旧石器時代のもので、境川近くの木曽町周辺で発見された。
また、縄文時代や弥生時代の住居跡や、祭事の場であり、墓跡といわれているストーンサークルも見つかっている。川に囲まれた肥沃な大地には、人が集まり、集落が定着しやすかったのだ。「本町田遺跡公園」には、復元された住居跡をみることができる。
ときが流れ、このあたりは「まちだ」と記されるようになった。いわれには3つの説があるといわれている。「町」は田んぼの区画をさし、この辺りには整然と区画された田んぼが広がっていたことを意味していたという。町田といわれるようになったのは、今の本町田あたりから田がひらかれ、それがきちんと区画されるようになってからだ。
もう一説は、むかしは「町」と「市」は同じ意味で使われていて、町田は昔から「人があつまって物や情報を交換したりする市」がさかんだったので町田とよばれた、という説。そしてもう一説は、市には市の神様がまつられる、その祭りに使われる田んぼを「祭り田(まつりだ)」とよんでいて、これがなまって町田になったという説。いずれをとっても、「当たり」のような気がするが、それだけ「町田」という地名は古くからこの地に根づいたものなのだ。
当地に残るその歴史を偲ぶ恒例行事「町田時代祭り」
鎌倉時代には、いまの下小山田町に館を構えた小山田氏、横山党などの武士が現在の町田市内一帯で活躍した、という記述が残り、堀のある城跡も現存している。また、能ヶ谷町からは、その当時流通していたといわれる、9万枚にも及ぶ貨幣が出土している。古くからこの辺りは経済活動が活発に行われていたことを伺い知ることができる。
明治時代に養蚕が盛んだった頃、現在の国道16号は群馬の一大養蚕地に繋がるシルクロードと呼ばれ、町田は横浜港にむかう中継地点として大変賑わっていたという。商人たちが行き交い、足を止めた町田。「商業都市」の顔はこの頃つくられたといえる。現在、JR横浜線・小田急小田原線「町田」駅周辺に大型商業施設が多数出店しているのは、明治時代からの流れを汲んでいるからなのだろう。