大森山王を知ろう!【第2回】歴史・文化・環境を専門家に聞いた、調べた、歩いてみた。

旧石器時代から現代まで大森エリアの歩みを習得

新しい住まいを探すとき、気になるエリアがあったなら、何はともあれ、その地にまず赴いてみるとよい。実際に自分の足で歩き、土地の空気を感じてみると、そこでの暮らしが何となく想像しやすくなる。

もし、その地の歴史を説明する施設などがあったら、ぜひとも訪れるとよい。土地の成り立ちや形状、文化のあり方といったものも知ることができたら、さらにイメージはクリアになっていく。また、古くから人々が暮らし続けてきた経緯を知ることで、長年の歳月の中で経験してきた幾多の自然災害にも耐えた、強固な地盤を持ち合わせたエリアであるということも、明らかになるのである。

都内でも有数の高級住宅地として知られる大森山王エリア。では、この地をもっと知るべく、さっそく現地へ出かけてみることにしよう。

エリアの近く・馬込には「大田区立郷土博物館」がある。3階建ての建物の中では、旧石器時代から現代にわたり、大田区のさまざまなもの・ことをわかりやすく展示している。

2階の「地中の歴史」コーナー前にて、「大田区では旧石器期から古墳期あたりまで、ほぼ全時代にわたって遺跡が出ています。海や川が近くて、食べものも豊富。人間が住むのに良い場所だったんでしょうね」と説明してくれるのは、郷土博物館の学芸員・藤塚さん。約30,000年も前の「久原小学校内遺跡」からすでに狩猟用や料理用の槍やナイフが出土していること、古墳期の墓から絢爛豪華な副葬品も見つかっていることなどを、展示品を指しながら次々に教えてくれる。古墳の時代から、豪華な副葬品を身につけた豊かな人物が暮らしていたこのエリアが、長い歴史を経て、現在も高級住宅地として発展しているということは、とても興味深い。

大田区立郷土博物館
●大田区立郷土博物館・2階展示室「地中の歴史」コーナー

大森山王エリアの遺跡といえば、この地を一躍有名にした「大森貝塚」は外せない。

モースによるこの発掘調査が、「考古学」という概念を日本にもたらしたことは有名。JR「大森」駅に「日本考古学発祥の地」という碑が建つのは、このためだ。

日本考古学発祥の地
●JR「大森」駅のホームに建つ「日本考古学発祥の地」石碑

約6,000年前の海岸線は、今の海岸線とは全く異なり、ヤスデの葉っぱのような形を思わせる非常に入り組んだ地形だった。当時の大田区の陸地は、郷土博物館のある馬込を含めた、山王あたりまでのようだ。

大田区にいくつもある貝塚は、たしかに陸地のライン内だけで分布している。藤塚さんによると、「当時は現代より気温が若干高かったので、水面も高かったようです」とのことで、土地自体が隆起したからではないという。昔からしっかりと陸地であった山王は、かの時代でも“人気の海辺の住宅地”だったらしい。

大田区にある貝塚の代表選手・大森貝塚が発見されるに至ったのは、この地が早くから交通の便に長けていたせいも大きい。もともと律令時代から東海道として整備され、江戸期には天領の「大井村鹿島谷」として幕府の直轄地であったこのエリア。

平間街道として人々の往来が盛んだった地だけに、早くから開けていたのだろう。大森に鉄道の停車場が設置されたのは、モースが来日する1年前の明治9(1876)年。線路自体はすでにエリア内に敷かれていたが、ここに停車場が置かれなければ、彼を乗せた列車は貝塚を目にでき得ないスピードで通り過ぎていたことだろう。

ちなみに、大森に停車場が設けられた理由は、イギリスから来た鉄道技師たちの居住地がこのあたりにあったからというものらしい。東京にも横浜にも近い大森は、国が招聘した“お雇い外国人”を住まわせるに足る、便利で安心できる地であると考えられたためであろう。

区内を走る東海道線の列車(大正末ごろ)
●区内を走る東海道線の列車(大正末ごろ) (写真提供:大田区立郷土博物館)

一方、大森山王と隣接する馬込エリアはこの時期はまだのどかな田園風景が広がっており、今では珍しい”江戸野菜”の栽培が盛んな農村であったということが、博物館の展示からわかる。

半白キュウリ
●馬込半白節成胡瓜。全長10cmほどの、苦みが少ない
 品種

◆「馬込半白節成胡瓜」(まごめはんしろふしなりきゅうり)
馬込では、明治後期に「馬込半白節成胡瓜」なる、いまでいう“ブランド野菜”が有名になった。“名は体(てい)を表す”のとおり、半分がノーマルの緑色で、半分が白い、珍しい種類だ。

その珍しさから、てっきり幻のキュウリかと思っていたら、いまも細々ながら、脈々と受け継がれているという。日曜にJAの店頭で開かれる朝市などで、ほかの地場野菜とともに売られることがある。

 

その後、山王エリアでは、景勝地としてのメリットを求め、富裕層が住宅や別荘を建て始める。大規模な東京湾の埋め立てが始まるのは昭和37(1962)年のことなので、まだまだ海岸線は山王の近くにある。

「望翠楼ホテル」や「大森ホテル」などもオープンし、交通の便も手伝って、山王はますますにぎわいの地に。このにぎわいは、時が経つに連れて馬込のほうまで伝播。新しい住宅地はどんどん広がっていく。

望翠楼ホテル
大正元年、馬込文学圏(山王3丁目)に開業した望翠楼ホテル (写真提供:大田区立郷土博物館)

このようにして、大田区内でも随一の住宅街として発展してきた大森山王エリアだが、同じく大田区内の高級住宅地である「田園調布」とは、その街の成りたちにおいて、大きな違いがある。

田園調布が、明治以降の人口増加の受け皿として、渋沢栄一などが英国の田園都市思想(豊かな田園の中で働き、生活する様式)を取り入れた、計画的なニュータウンだったのに対して、大森山王は、これまで見てきたとおり、高台の立地や利便性などの土地格と共に、自然発生的に発展してきた住宅地であるといえる。

このように、大田区には、西(田園調布)と東(大森山王)で、なりたちが全くことなる居住地区が存在するという点が、非常に興味深い。

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