伝統が息づく街日本橋

 

そもそも「日本橋」という地名、何処から来たものであろうか。

江戸時代いちばん最初にここにかけられた橋が木を二本渡しただけだったことから「二本橋」の名前が生まれ、その後橋が大きくなるにつれて「日本橋」となったという洒落好きな江戸っ子好みの由来もあるらしいのだが、はたして真相は?

1603(慶長8)年徳川家康は江戸に幕府を開き、ここから江戸城の城下町としての日本橋の歴史が始まる。隅田川、江戸湾につながる日本橋川の水運を生かし、諸国の物産が集まるようになった。また魚河岸の存在も大きく、江戸の商業、運輸業、金融業の中心として栄えていたという。今日の日本橋の街の基礎はこのときに作られたものであり、基本的な性格は驚くなかれ400年のあいだ変わっていないのである。

現在の日本橋地区は大まかに言って2つの顔をもつ。日本橋室町界隈を中心とする過去の記念碑的建造物とそれを生かして形作られていく再開発によって生まれ変わる地域と人形町周辺を中心とする昭和の色合いを今でも濃く残す地域が共存している。そのいずれの町並みも「日本橋」であり、そしてその町並みの中には「三代、100年、同業で継続し、今も盛業」という老舗がいくつも存在する。ちなみに「三代、100年、同業で継続し、今も盛業」というのは「東都のれん会」という組織の参加資格だが、ここでは老舗と名乗ることのできる条件だと思ってもらってもいい。

例えば、

日本最初の眼鏡専門店、夏目漱石、乃木希典に愛用され、そして現在に至るまで皇室御用達の「村田眼鏡舗」

1718(享保3)年将軍家継お抱えの刷毛師として創業、明治以降はブラシ製造も手掛ける「江戸屋」

天保年間創業、当初は水菓子処として始まり、明治初年(1868年)には現在の室町に移転。日本初の果物専門店として今も業界をリードする「千疋屋総本店」

天正年間創業、うちわ製造から始まり、江戸時代には浮世絵の出版も手がけ、後に扇子、和紙製品の製造販売を行い今に至る「伊場仙」

 

 

江戸時代、魚河岸がこの地に開かれた頃に今と同じはんぺんと蒲鉾の専門店として創業。時代は変わっても変わらぬ味を守り続ける「神茂」

こうした超老舗と呼んでもいいような名店がそこかしこに点在する街、日本橋。こうした老舗が生き残っていくための条件とは何だろうか。各店それぞれの努力はもちろんのことだけれども、その一つの鍵にその街のもつ潜在能力というものがあると僕は思っている。そこに住む人たち、集う人たちの潜在能力と言ってもいいかもしれない。

かつては日本全国の物産が集まり、人々が交通の起点として集った街の、いまだに残る目に見えない力。変わらない存在であるために、日々革新を続ける努力を怠らない人々とその努力を鼓舞していく街。お互いの存在を強烈に意識しあう老舗同士の絆。日本中から野心ある人間が集まるだけの魅力を持った街。歴史の重みのある建造物にいつも見守られている人たち。守るべき規範と、壊すべき悪癖を理解している人たちの想い。

こうした様々な力が渾然一体となってこの街の魅力を作り出している。それは、うすっぺらな名前のついた新興住宅地ではもち得ない伝統の力を信じている人たちの力なのだろう。

東京には様々な街がある。古くからの街もあれば、新しい街もある。古くても新しい街もあれば、新しいはずなのにもう新鮮味のなくなってしまった街もある。

江戸開闢以来400年を過ぎ、いまもなお変貌を続け、伝承と革新を繰り返し、魅力的であり続ける街日本橋。この街の全貌を知るには、この街に住んでみるのがいちばんの近道なのかもしれない。

 

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